◆ 明仁上皇とモンテーニュ ◆



平成の世が終わりに近づいた頃、テレビは、
平成の時代を担われた上皇陛下の波乱に富んだご生涯を振り返る番組を盛んに放映していた。
 
私も或る日曜日の昼、テレビの前に座り込んで、
そのうちの一つ、「天皇 運命の物語②」というNHKの番組を見た。

それには二つの目的があった。一つは、陛下と同じ時代を生きて来た人間として、
敗戦直後の日本の社会状況、その頃の荒廃した世相を、映像によって振り返ってみることであり、
もう一つは、平成天皇ご即位後、初の記者会見についての自分の記憶を確かめることであった。
 
 
私の記憶では、会見の終わり方に、或る記者が「陛下の愛読書は何ですか?」と問うたのに対して、
陛下は確かに「『モンテーニュ随想録』を枕頭の書として居ります」と
お答えになったと信じているのであるが、
その後、そんなことを覚えている人は誰も居ないことが分かり、
自分の記憶に自信が持てなくなっていたのである。

 

第一の目的は十分に達せられた。
しかし、第二の目的は果たすことが出来ず、
がっかりしていたところ、或る人から、天皇陛下の記者会見の模様は、
すべて宮内庁が記録しており、その記録はインターネット上で公表されていると教えられた。

そこで早速調べて見たのであるが、
平成元年八月四日に行われたはずの、即位後初の記者会見に関しては、
残念ながら記録を見つけることが出来なかった。

 

その代わり、平成六年九月二十一日に行われた、
陛下のフランス・スペイン公式ご訪問に際しての記者会見の記録は、
その全文をインターネット上で読むことが出来た。宮内記者会の代表質問に対し、
陛下は次のようにお答えになっている。

 

「私のフランス訪問は41年前になりますが、
その時、訪れたいと希望したものの中にボルドー近くのモンテーニュの住んでいた
シャトー......がありました。当時モンテーニュの随想録を読んでおり、......」

 

41年前と言えば、1953年のこと、まだ皇太子時代の上皇陛下が、
昭和天皇のご名代として、エリザベス女王の戴冠式に臨まれた年である。
各国元首と並んで式典に列席なさるために、
殿下が横浜港から訪欧の途に就かれた模様は、先のNHKの番組に克明に記録されていた。

 

第二次世界大戦後、敗戦国日本が、
戦勝国である連合国側と結んだ講和条約が発効したのは19524月であるから、
戴冠式が行われた19536月と言えば、それからまだ一年そこそこしか経っていなかった。
 
 
その頃は、国の内外を問わず、天皇の戦争責任が厳しく問われていた時期である。
そんな時、日本国皇太子のイギリス訪問は、お祝いの席に連なるためとは言いながら、
単なる社交儀礼の域にとどまるものではなく、政治の次元においても、
きわめて重大な意味合いを帯びていたものと言わねばならないだろう。
 
 
それは、敗戦国日本が、やっと国際社会に復帰することが出来た、
その最初の一歩を印すものだったからである。

実際、横浜港を出発する殿下をお見送りする大勢のお歴々のなかに、
先年、サンフランシスコ条約の調印を終えたばかりの、時の首相吉田茂の満足気な姿があった。

そして長い船旅の後、到着したイギリスで殿下を待ち受けていたのは、
元日本の捕虜だった旧イギリス兵たちの、皇太子訪問に対するあからさまな敵意だった。

 

そんな中、殿下がイギリスの次に訪問されたフランスで、
自分はモンテーニュの随想録を読んでいる、是非、彼の住んでいたシャトーを見たい、
という希望を表明されたとしたら、フランス国民はどう反応したであろうか。
 
モンテーニュと言えば、フランス・ユマニスムの元祖であり、
フランス文学、フランス哲学の最大の古典である。そればかりではない。
 
同時代のイギリスでは、シェイクスピアやベーコン兄弟などが、
その著作である「随想録」(「エセー」)を愛読し、熟読したと言われる、
ルネッサンスを代表する巨人なのである。


極東の敗戦国からやって来た19歳の若者が、フランス文化に対し、
これほどの理解と共感を示したことを、フランス人たちは、どんなにか誇らしく、
また喜ばしく思ったことであろう。
 
彼らにとって、当時はまだ、事実上未知の国であった日本という国に対して、
どれほどの好意的感情と、どれほどの親近感を抱いたことであろう。

 

ここに私は、政治のレベルとはまったく異なるレベルにおける、
見事な外交を、国際親善のこの上なく立派な実践を見ることが出来るように思う。

 
 
 

 モンテーニュの塔。

 
 
この三階にある書斎兼図書室で、
彼は『随想録』の執筆に勤しんだ。


 「家にいるとき、わたしはよく図書室に足を向ける。そこで書見をしながら家事を監督する。そこは入り口の真上なので、わたしは、菜畠も鶏小屋も中庭も、また屋敷の大部分をも、眼下に見渡すことが出来る。そこでわたしは、あるときはこの本を、あるときは別の本を、これという目的もなければ順序もなく、あれこれと拾い読みする。そして、あるときは夢想し、あるときは部屋の中を歩き回りながら、ここに書きつけておいたような妄想の数々を、頭のなかで反芻したり、口に出して言って見たりする。......

 「此処でこそ、わたしは一国一城の主なのだ。わたしは此処を、自分の絶対の支配下に置こうと努めている。......

(『モンテーニュ随想録』第三巻第三章「三つの交わりについて」より)

 

 

さらに特筆すべきは、「モンテーニュの随想録を読んでおり……」という殿下のお言葉が、
決して単なる社交辞令ではなかったことである。
テレビに映し出された皇太子殿下は、如何なる構えも衒いもなく、
自然体で、まことに淡々と、その大役を果たしておられるようにお見受けした。

 

モンテーニュは、彼の理想とする人物像について、次のように書いている。

 

「わたしは数階建ての霊魂、すなわち、緊張することも寛ぐことも知っている霊魂、運命がどこに連れて行こうとも、そこに安寧を見出すことの出来る霊魂、近隣の城主たちと、城の造作や訴訟や狩猟の話などを語り合うばかりでなく、出入りの大工や植木屋とも打ち解けて話の出来るような霊魂に対して、惜しみなく賛辞を送るであろう。供回りの人たちの中に入り混じり、供の中のもっとも身分の低い者にも気安く話しかけ、談笑することの出来る人たちを、わたしは心から羨ましく思う。(同上)。

 

テレビに映し出された若き皇太子のさわやかなお姿は、
まさにモンテーニュの、このような賞賛を浴びるにふさわしい「霊魂」を
体現して居られるように思われないだろうか。

殿下はモンテーニュ「について」、何一つ語ってはおられない。でも殿下が、
モンテーニュ「を」お読みになっておられること、真の意味で「随想録を読んで」おられることは、
あまりにも明らかであるように思われないだろうか。

 

或る確かな筋から聞き及んだところによれば、この平成六年のフランス公式ご訪問のの際、
陛下は、時のフランス共和国元首、フランソワ・ミッテラン大統領より、
「モンテーニュ随想録」の由緒ある旧い版本を贈られたということである。


 

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