青山学院大学文学部フランス文学科とモンテーニュ


 

モンテーニュの翻訳とその普及とに一生を捧げた私の父、関根秀雄は、「随想録」(「エセー」)の五度目の改訳を終えた八十八歳の年、「モンテーニュとの六十年」なる一文を朝日新聞に寄稿している(1983年2月21日付け夕刊)。

 

そこで彼は記している。「顧みると私が随想録の翻訳に取りかかったのは、まさに満州事変勃発の前夜、三十一歳の時であったが、モンテーニュがエセーを書き始めたのも血腥い宗教戦争の最中、一五七二、三年ごろで、まさにかの聖バルテルミ祭大虐殺の前夜であった」。

 

モンテーニュは、四十歳にもならぬうちに、公職を退き、独りモンテーニュの城館に籠って執筆活動を始めたのであるが、「だが間違えてはいけない。」と父は書いている、「それは決して単なる逃避には終わらなかった。......あの塔の三階にたてこもって閑寂な日々を楽しんでばかりはいなかった。戦争にも参加したし、政治外交の世界では、後年即位早々の国王アンリ四世から、最高顧問として就任するようにとの親書を賜るほどの実力を示したのである」。

 

モンテーニュ研究者であった父にとって、モンテーニュは、ただ「考える人」「書く人」であったばかりではなく、「行動する人」でもあったのである。

 

彼は続けて言う。共に「乱世に生を享けた」人間として、「私もまた戦中戦後を通じてこのモンテーニュの生き方にならって生きながらえて来たのである」と。

 

ところで、モンテーニュは貴族であり、宮廷人であり、王の側近でもあったから、「政治外交の世界」で活躍をすることが出来た、というよりも、むしろ活躍せざるを得なかった、のであるが、「政治外交の世界」などにはまったく無縁の父は、どのようにして「モンテーニュの生き方にならう」ことが出来たのであろうか。

 

長く教職にあった彼にとって、それは教育の世界以外にはあり得なかった。

1959年3月、都立大学を定年退職した彼は、同年4月に青山学院大学に教授として就任し、三年後の1962年に、その大学文学部のなかに、新たな学科としてフランス文学科を創設したのであった。

 

学科創設の経緯について、当時海外留学中であった私は何も知らない。

ただ、帰国後、自分もまたフランス語教師として、大学に奉職するようになったとき、父は、折にふれて私に、次のようなことを言って聞かせた。

 

大学のフランス文学科と言うところは、フランス文学の研究者、専門家を養成するところではない。学部では「教養としてのフランス文学、実学としてのフランス語」を学んで、よき社会人になれば、それでよいのだ。専門の研究者、学者になりたければ、卒業してから大学院に進学すればよい、と。

 

このような言い分を、繰り返し繰り返し聞かされているうちに、父が愛読して止まなかった「エセー」の中のいろいろな文言が、次々と思い出されて来た。

例えば、モンテーニュは書いている。

 

「私は先ず第一に、自分の国語を十分に知りたい。それから、私がしじゅう往き来している隣国の言葉を知りたいのです。ギリシャ語とラテン語とは、確かに立派な装飾であるに相違ありませんが、世間はそれを、あまりにも高く買わされていると思います。ですから私は、それをもっと安く買う方法を、ここに伝授することに致しましょう」(Ⅰ―26「子供の教育について」)。

 

つまり父は日本の大学生に、フランス語を「隣国の言葉」として、隣国の人たちと親しく交わることを可能にする手段として、先ず以て耳で聞き、口で話すことを学んでもらいたいと願ったのである。

 

とはいえ、1960年前後の日本人にとって、モンテーニュが勧めているように、いわゆるネイティヴ・スピーカーと親しく交わったり、彼らの生活している現地まで出かけて行くことなど、そう簡単に出来ることではなかった。

 

そこで考えられたのが、「語学ラボ」の活用である。日本の大学において、語学ラボを使って、フランス語を耳で聞き、声に出して発音することを教えたのは、おそらく青山学院大学が初めてであったと思う。

もちろん「フランス文学科」と言うからには、日常会話が何とかこなせればそれで済む、という話ではない。当時の大学において主流であった、文法や購読の学習も、決して疎かにしてはならなかった。

とは言え、実際問題として、二年や三年学んだからと言って、フランス語原文が、すらすら読めるようになるというものでもないであろう。いきおい、辞書と首っ引きで、パズルでも解くように、テキストを読み解いて行くことになる。

 

ではどうするか。ここでもまた、モンテーニュが登場する。

 

「我がすべてのフランス語作家の中で、私は、ジャック・アミヨにこそ、棕櫚の葉を与えたい......私はギリシャ語はまるで分からないのであるが、それでも彼の訳文の至る所に、極めて美しい、極めて首尾一貫した、一つの意味を見出すことが出来る。それは彼が、原著者の真の思想をはっきりと理解しているから(、......)、 少なくとも彼が、長きにわたる著者との親交によって、プルタークの霊魂とは大体どのようなものであるかを、自分の霊魂のうちに鮮やかに刻印しているから(......)、であるに違いないのだ。

だから私は、とりわけ彼が、ああいう尊い、適切な書物を選び出し、これを祖国への贈り物にしたことに、深く感謝せずにはいられない。......」(Ⅱ―4「用事は明日」)。

 

翻訳と言うものの役割、その重要性を、これほど見事に語った文章を、私は知らない。父もまた、この文章に深い感銘を受けていた。だからこそ彼は、学生たちが難解なテキストを前に、悪戦苦闘する姿を見るよりは、むしろ優れた翻訳を通じて、フランス文学に親しみ、教養を高めて行くことを望んだのだと思う。

 

だが、そもそも教養とは何なのか、そう問う人もあろう。モンテーニュの忠実な弟子であることを自任していた父にとって、そんな難しい議論は無用であった。

 

ある貴族の子弟の養育に関して、モンテーニュは次のように進言している。

 

「......人々との交遊は大変ためになるものでございます。異国の歴訪も、同様にとても有益でございます」。でもそれは単なる仲間うちの社交、単なる観光旅行に終わってはならなかった。それは「むしろ、主としてこれらの国民の人情・風俗を見て来るため、我々の頭脳を他の国民のそれと擦り合わせながら磨き上げるため、に他ならないのでございます」(Ⅰ―26「子供の教育について」)。

 

「教養」とはつまり、たくさんの知識の蓄積でもなければ、高度な学識の獲得でもなく、自国の「人情・風俗」だけが絶対的なものであると信じ込む愚かさを反省し、広い世界の多種多様な人間たち、多種多様な風俗、多種多様な文化・価値観を理解し、そして尊重することの出来る、柔軟な精神を持つことなのである。

 

ここでもまた、彼の勧める「異国の歴訪」は、先にも述べたように、1960年前後の日本人にとっては、事実上、不可能であった。しかしそれに代わる別の方法がないわけではない。

 

「この人々との交際というもののうちに、私は、書物の中でのみ記憶され、生きているに過ぎない人たちをも含めたい、と思うのでございます。しかもその大切な一部分として」。(Ⅰ―26「子供の教育について」)。

 

つまり、海外旅行が無理なら本を読めばよいのである。例えば、翻訳されている多数のフランス文学作品を、存分に活用すればよいではないか。

斯くして1962年、青山学院大学文学部フランス文学科は誕生した。

 

ここに、学科発足54周年にあたって「あなたと青山学院」第20号(2016年2月)に掲載された、当時のフランス文学科同窓会会長、原田紀子さんの一文、「フランス文学科で学んだこと」をご紹介したいと思う。

 

Honnête hommeを目指して

1962(昭和37)年、青山学院大学文学部フランス文学科が創設され、当時の主任教授でモンテーニュ学者の関根秀雄先生は、「きちんとフランス語を勉強し、フランス文明史を学ぶことより、honnête homme (オネトム:自分で物事を判断できる自立した知的教養ある「人間」)になるように」と繰り返し述べられました。また、語学の篠田俊蔵先生は、”Ce qui n’est pas clair n’est pas français” (明晰でないものはフランス語ではない)—A.de Rivarol― をたびたび引用しつつ、フランス語の持つ明晰性と論理性を説かれ、私たちの思考もそうでなければならないといわれました。

昨年53周年を迎えたフランス文学科の井田尚学科主任は、同窓会会報『courrierNo.19のインタビューのなかで、「人文学を源流とする文学部の教育、なかでも人間の普遍的な性質を追究するユマニスム的伝統を特徴としたフランス文学科の教育には、言語能力や思考力など、社会の幅広い分野で生涯役に立つ本物の知的技能と、人生を歩むうえで、心の「支えや余裕となる知的教養が身につく強みがある」といわれています。

 私たち卒業生は、フランス語を話せるかどうかはともかく、さまざまな人生の岐路に立って何を選択するか迷ったときには、この大学時代に学んで来たことが通奏低音のように心に響いていたように思います。 フランス文学科同窓会会長/原田紀子

 

昨今、文学など無用の長物であるとして、高校の国語学習課程においても冷たくあしらわれ、大学における文学部とか文学科といった名称も、何か黴臭い、時代遅れのもののように思われがちであるが、そのような風潮のなかにあって、青山学院大学文学部フランス文学科は、今日もなお健在であり、原田紀子さんが述べておられているように、その建学の精神は、世代を超えて脈々と受け継がれて来ている。そのことを、私は心から嬉しく、誇らしく思うのである。

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