『ユマニチュード』を読む (1)


まえおき

 

これから何回かにわたって、

 

Yves Gineste/Jérôme Pellissier : HUMNITUDE  Armand Colin, Paris, 2007, 2014 pour la présente édition.

 

という本を、日本語への翻訳ではなく解説という形で、紹介して行こうと思う。便宜上、上記フランス語原書を、以後『ユマニチュード』と略称して話を進めることにしたい。

何を今更、つまり教職を退いてやがて三十年にもなろうという今頃になって、何故「解説」なんて、学校の授業みたいなことをまたやり始めようというのか、それには少々説明が必要であろう。

 

初めて「ユマニチュード」という介護の技法を知ったのは、2014年の冬、NHKの「クローズアップ現代」という番組(2014/2/5 )によってであった。

当時、国谷裕子キャスターによるこの番組を、私は殆ど毎晩見ることにしていたのであるが、その日は帰宅が遅くなって、テレビのスイッチを入れたとき、番組はもう終わりに近づいていた。

 

先ず目に入って来たのは、モジャモジャ頭のフランス人と車椅子に座った老婦人。彼が「今日はこれでお別れしましょう」とか言って、車椅子の前にかがみ込み、彼女の両頬にキスをして、それから当然のように自分の頬を彼女の前に差し出すと、彼女もまた当然のように、何のためらいもなく、ごく自然に、彼の両頬にキスをしたのだった。

 

私は仰天した。お互いに抱き合って相手の両頬にキスをする、あのフランス式の挨拶の仕方が、この年頃の老婦人にとって、身についた習慣であったとは到底思われなかったからである。気が付くと、何処かの病院か施設の廊下らしいその場所の、少し離れた後ろのほうに、おそらくはその老婦人の息子さん夫婦であろうと思われる中年の男女二人が、疲れ切った表情で、ほとんど茫然とその場に立ち尽くしていた。

 

番組が終わり、それが、「ユマニチュード」というフランス直輸入の介護の技法(以後、著書『ユマニチュード』と区別して、技法を表すときは「ユマニチュード」と表記)の紹介であり、技法の考案者であるイヴ・ジネスト氏が、日本人患者を相手に、その技法を実践して見せたドキュメント番組であったことが判明した。

 

ユマニチュードという言葉を聞けば、多少なりともフランス語に親しんだ者は、ユマン(humain人間の、人間的な)、ユマニスム( humanisme 人間主義)、ユマニスト(humaniste 人間主義的な、人間主義者)、ユマニテ(humanité 人類、人間性)といった一連の語を思い浮かべずにはいられない。

当時、アルツハイマー病を宣告された夫の介護に、日夜、頭を悩ませていた私は、長年にわたり、この、フランス文学の根底を支えるユマニスムという思想に親しんで来たので、「ユマニチュード」という、ユマニスムとの密接な関連を思わせる語が何を意味しているのか、もっと詳しく知りたいと思った。そこで早速情報を集めにかかり、行き着いたのが、テレビで見た、あのジネスト氏の『ユマニチュード』という著作だったのである。

 

早速注文して届いたその本は、日本では菊版と言っている版型にほぼ相当するのだろうか、とにかく大きな本で、しかも優に三百ページを超えた大部なものであった。ざっと目を通しただけで、これはとても三、四日で簡単に読み飛ばせるような、お手軽なハウツーものではない、ということが分かった。

そこで覚悟を決めたのである。少しずつでもよいから、腰を据えて、じっくりこの本を読んで行こう、と。「じっくり読む」のに、翻訳ほど適切な方法はない。というわけで、毎日、介護の合間を見ては、少しずつ、少しずつ、まるで写経でもするような心持ちで、その本の翻訳を進めていったのだった。

 

そんなふうにして、ほぼ翻訳を終えた頃、介護の対象であった夫は帰らぬ人となっていた。いきおい、介護以外に考えなければならないこと、しなければならないことが続出して、私の『ユマニチュード』に対する関心も薄れて行った。

 

そんなとき、NHKで「認知症時代に希望“科学的介護”最前線」と題されたテレビ番組が放映されたのである(「クローズアップ現代+」2019/1/10)。

見るともなく見ていると、ベッドと思しき台の上に、患者役らしい若い男性が横たわって居り、そこに異様な風体の人物が歩み寄り、何か話かけようとしている。男の人はびっくりして半身を起こし、何事が起きたのか、といった表情で相手を見つめ返している。

 

見ていてだんだん分かって来たのだが、それは、「アイコンタクト」なるものに関する実験であったのだ。「異様な風体」と見えたのは、近づいて来た介護者役の女性が、実験器具である巨大なメガネをかけていたからである。

私のこの記憶に、相当間違いがあるかも知れないことは、認めなければならないだろう。でも、最初に目に飛び込んで来たこのシーンは、あまりにもショッキングであり、初めて「ユマニチュード」という技法を知ったときのテレビ映像とは、あまりにもかけ離れたものだったので、私は動転してしまったのである。

 

「ユマニチュード」という介護の技法において、「見る」ということ、すなわち介護者と被介護者とがぴったり視線を合わせることは、その技法を支える四つの柱のうちの一つである(本田美和子/イヴ・ジネスト/ロゼット・マレスコッティ:ユマニチュード入門、医学書院、20146月、8月。以後『入門』と略記)。

 

テレビで紹介していた実験は、この「介護の技」が、「長年の経験や勘として捉えられ」ているだけで、その「実体」は未知であるという認識から、今回、「科学の力でその秘密」を解き明かして見せよう、というものであった。

そこで大層な人員と大層な道具立てとを動員して、介護者が、どの辺まで被介護者である相手に近づいて、どのような角度からその視線を捉えれば、しっかりと目と目を合わせることが出来るのか、それを「科学的に」検証しよう、すなわち沢山のデータを処理して、適切な数値を弾き出そう、というものであった。そして、この「アイコンタクト」が、介護のどのシーンにおいても、常に繰り返され、適当な時間、保持されることにより、初めて介護は効果的に行われ得る、と結論しているらしかった。

 

引き続き番組では、「ユマニチュード」のもう一つの柱「触れる」という動作についても、「科学的な」アプローチが研究されていることを紹介していた。

すなわち、被介護者が自分の体に触れられたとき、どのように反応するかということを、「数値化、データ化する」ことによって、何時でも、何処でも、誰でも、すぐに効果的な介護を実践することが出来る、というのである。

「科学的介護」とは、要するに、介護技術における「汎用性」の達成、マニュアル化実現の可能性を開くもの、ということになるらしい。

 

この番組を見て、私は強烈な違和感を覚えないではいられなかった。

――いきなり知らない人がやって来て、ヌッと顔を近づけて、至近距離から自分の顔をまじまじと見つめたら、介護される側の人間はどう反応するだろうか。

目は耳と違って、見たいと思わないものは見ないで済ませることが出来るのだ。

――たとえ介護者が、与えられた数値目標を達成し、相手の視線を捉えることが出来たとしても、果たして被介護者は、介護者の期待する反応を示してくれるだろうか。

――介護者が、被介護者の目のなかに、自分の期待する効果を読み取ることが出来ないことだって十分あり得る。その場合、介護者はどうしたらよいのだろう。

 

このような介護者と被介護者との関係の何処に、「人間的なもの」を認めることが出来るのであろう。

このような「科学的介護」を推し進めることが、介護技術の「最前線」であり、その進むべき道を示すものであるとしたら、「介護」とは一体何なのか。

 

 

子供を発見した、と言われる『エミール』という著作のなかで、ルソーは言明している、「教育というものが、単なる一技術と化してしまったなら、もはや、それが成功する可能性は殆ど残されていない」と。

この「教育」という言葉を、「介護」という言葉に置き換えることは出来ないだろうか。

ルソーは続けて言っている、教育が多少なりともその目標に近づくことが出来るためには、先ず以て、教育の対象となる存在、すなわち子供とはどういう存在であるか、を知らなければならない、と。

 

そうだとしたら、介護の技法が有効に機能するためには、

――「介護」の対象とはどういう存在なのか。

――「介護」が達成すべき目標とは何なのか。

ということを、先ず、知らねばならないのではなかろうか。

 

こういった問題をその根底から問い直すためには、今一度『ユマニチュード』という本を、じっくりと読み返してみる必要があるのではないか、そう私には思われた。

 

 

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