『ユマニチュード』を読む(2)表紙と目次
表紙
本を開く前に、先ず表紙をざっと眺めて見ることにしよう。
最初に著者名として、イヴ・ジネスト/ジェローム・ペリシエという二人の名前が、この順序で、
二行にわたって書かれている。
最初の一文字、Hは大文字で、しかも赤く印字されている。
赤々と輝く大きな落日を背に、一人の人物がぽつねんと佇んでいる。その姿はどこかムンクの絵
を思わせる。その人物の両側から、人の手のような、或いはもっと霊的な存在の手のようなもの ——というのも、その白い、なよなよした形のものは、確かに五本の指を備えてはいるようだが、しかしまた、何か水草の大きな葉のような、或いは浮遊する雲のようなものにも見えるのだ―― が差しのべられている。このイラストは、ジェローム・ロ・モナコという人の作品だそうだ。
これだけのことから、どんなことが解るだろうか。
著者ジェローム・ペリシエについては、本の裏表紙に、「作家にして老年心理学の研究者。作品として、特に『夜、老人たちは皆、灰色だ』『世代間闘争』がある」と記されている。
同じく著者イヴ・ジネストについては、「ロゼット・マレスコッティと共に、<ユマニチュードの哲学>、及び<介護の技法 ジネスト-マレスコッティ>を創始した人」という簡単な説明がある。
この二人の著者の説明では、表紙とは反対に、ペリシエが先で、ジネストが後である。
ロゼット・マレスコッティの名は、ユマニチュードという介護の技法、及びその哲学において、
ジネストとの共同開発者、創始者としてのみ記されていて、著者名としては記されていない。
ただ、本書の最初のページには、彼女に対する熱烈な謝辞が捧げられており、
「彼女の存在なくしてこの本は存在し得なかった」とまで書かれている。
ジネストとの共同開発者、創始者としてのみ記されていて、著者名としては記されていない。
ただ、本書の最初のページには、彼女に対する熱烈な謝辞が捧げられており、
「彼女の存在なくしてこの本は存在し得なかった」とまで書かれている。
副題における「理解すること」「世話をすること」という二つの動詞の不定形は、共に、命令、
ないし勧告、指示等を表すものと考えてよいだろう。
ないし勧告、指示等を表すものと考えてよいだろう。
「老年」と訳した語vieillesseは、「老人たち」(すなわち「老いた人間たち」)と訳すことも可能な語であるが、ただ、フランス語では、同じ表現を続けて用いることを極度に嫌うので、「老いた人間たち」を理解し、「老いた人間たち」の世話をする、と書くことには抵抗があったに違いない。それで、最初は「老年」という、抽象的包括的な意味を持つ語を選んだのだと思う。それに、初めから「老いた人間たち」と書いてしまうと、二度目はこれを代名詞で受けることになり、「人間たち」を大文字で強調することが不可能になる。そんな事情もあったかも知れない。
二つの動詞句の間に置かれたコンマは、「然る後に」という意味を担っている。つまり先ず「老年」を「理解する」ことから始めて、「然る後に」、その「理解」に基づいて、「世話をする」、という意味になる。
以上、やたらと細々した文法的説明が長引いてしまったが、そろそろこの辺りで、
使われている語、ないし表現の意味について考えてみたいと思う。
使われている語、ないし表現の意味について考えてみたいと思う。
「(誰かの)世話をする」という動詞句は「一人では出来ないことがあって困っている人があったら、その人を助けてあげる」という意味であり、極めて日常的に使われる表現である。
「幼い子の世話をする」「生活に困っている人の面倒を見る」と言った場合などに使われ、決して或る専門領域における特別な用語ではないのである。このことに十分注意する必要があろう。
「幼い子の世話をする」「生活に困っている人の面倒を見る」と言った場合などに使われ、決して或る専門領域における特別な用語ではないのである。このことに十分注意する必要があろう。
ここまで来れば、本書の中心的な主題は「老いた人間たち」であり、彼らを「理解する」こと
である、ということが、自ずから理解されるのではなかろうか。
である、ということが、自ずから理解されるのではなかろうか。
すでに見たように、著者たちは医学・医療の専門家ではないし、アルツハイマー病とか認知症とかいう疾患の名前も、まったく登場していないのだ。従って、治療とか、看護とか、介護とか、予防などという問題意識も、この表紙から読み取ることは難しいと言わねばならない。
目次
本の内容、構成を、全体的に把握するには、目次を見るのが一番である。そこで、「概要」と大きく記されたページを眺めてみることにしよう。
以下に記す通り、本書は七つの章から成っている。各章は、さらにいくつかの節に小分けされているが、その部分はすべて省略し、七つの章の大見出しのみを掲げることにする。
以下に記す通り、本書は七つの章から成っている。各章は、さらにいくつかの節に小分けされているが、その部分はすべて省略し、七つの章の大見出しのみを掲げることにする。
序文
第一章 人間たちについて ——ユマニチュードとは
第二章 互いに関係しあう人間たちについて ——初めての事態
第三章 老いた人間たちについて
第四章 人間たちについて ――パラレルな世界
第五章 世話をする人間たちについて
第六章 ユマニチュードの哲学
第七章 介護
結論に代えて 人間たちについて
付録
付録
巻末注
参考書目
敢えてこのような逐語訳を示すことによって、何が見えて来るであろうか。
先ず目に付くのは、「人間たち」という語の頻出である。七つの章のうち、第一章から第五章
まで、見出しのすべてが、「人間たち」という語を含んでいる。
まで、見出しのすべてが、「人間たち」という語を含んでいる。
しかし、表紙に目立つ形で書かれていた「老いた人間たち」という語は、第三章に至って
初めて姿を現す。
初めて姿を現す。
「哲学」という語が登場するのは第六章、「介護」という語が表記されるのは、やっと最後の
第七章においてである。このことに意外な感を持つ人があるかも知れない。
第七章においてである。このことに意外な感を持つ人があるかも知れない。
「結論に代えて」という事実上の最終章には、第一章とまったく同じ「人間たちについて」という表題が付けられている。
そこで、このような目次の概観から何が分かるか、考えて見たいと思う。
「人間たち」という複数形は、「人間とは何か」という、いわゆる哲学書などでよく問題にされる抽象的、観念的な人間像、「人間というもの」「人間性」「人間の本質」を意味しているのではない。その場合、「人間」は単数定冠詞付きで表わされるのだが、本書において、「人間」と言う語は、原則的に複数定冠詞付きで書かれている。何故かと言えば、ここで問題なのは、観念としての「人間」ではなく、現実の世界に生きる「人間たち」だからである。さまざまな状況において、さまざまな立場にあって、さまざまな考え方、感じ方をしながら、日々を生きている、大勢の、多様な、ふつう一般の「人間たち」こそが主題なのである。
そのような「人間たち」の具体的な姿を観察し、考察し、理解して行くうちに、次第に
「ユマニチュードの哲学」が形成されて来て、その「哲学」の枠組みのなかに「介護」という
行為が位置づけられることになる。
「ユマニチュードの哲学」が形成されて来て、その「哲学」の枠組みのなかに「介護」という
行為が位置づけられることになる。
「結論に代えて」という事実上の最終章においては、第一章と同じ「人間たちについて」
という表題がつけられているのだが、これはいったい何を意味するのであろうか。
という表題がつけられているのだが、これはいったい何を意味するのであろうか。
一頁にも満たないこの短い「章」に書かれているのは、1948年12月10日、国際連合の第三回総会の決議で、満場一致で採択されたという「世界人権宣言」の前文、及びその第一条なのである。
「すべての人間は、生れながら自由で、尊厳と権利について平等である。人間は、理性と良心を
授けられており、同胞の精神をもって互に行動しなくてはならない。」
授けられており、同胞の精神をもって互に行動しなくてはならない。」
これがその第一条全文である。
『ユマニチュード』という題名の本書が、読者に訴えようとしていることは何か、目指していること、少なくともその方向性は何か、この文によって、大体の見当がつくのではないだろうか。
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