『家族のためのユマニチュード』  ——感想――


表題に掲げた本の詳細は以下の通りである。

イヴ・ジネスト/ロゼット・マレスコッティ/ 本田美和子 共著
『家族のためのユマニチュード』(誠文堂新光社 20188月、20191月)

この本は、上記三人の著者たちにより、同じ出版社から刊行された三冊目の本となる。
一冊目は『ユマニチュード入門』20146月(以下『入門』と略称)であり、
二冊目は『「ユマニチュード」という革命』20168月(以下『革命』と略称)である。

上記二冊は、以前に自分で買い求めて読んだ。しかし、今回取り上げることにした三冊目は、或る機会に他人様から頂戴したものである。
私が「ユマニチュード」という介護の技法を知って六年、夫を亡くして三年、最初この三冊目の本を手にしたとき、正直なところ、すぐ読む気にはなれなかった。「今更私に何が出来るというの? ここに書いてあることなんか、みんな知ってます」という気持ちだった。

それでも何となくページ繰っていたら、「おわりに ~介護をしているあなたへ」という、ジネストさんの文章に行き当たった。読むともなく読んでいるうちに、不覚にも涙が溢れて来た。タガが外れた、というのか、ふだん自分では気付いていなかった或る種の緊張感のようなものが、ほどけて流れ出て来た、というのか、涙はとめどもなく溢れ出た。同時に「これでいいんだ、何も悔やんだり悩んだりする必要なんかないではないか」という思い、そういう思いを理解し共有してくれる人が、この世の中にちゃんと存在している、という思いが、涙と共に湧き出て来るように思われた。

その文章の最後に、「私の人生の目標は《常に他者を頼ること》だ、と私は穏やかな気持ちで言うことができます。なぜなら、《他者を頼る関係》そのものが、相手からの《贈り物》なのですから」と書いてあるのを読んだ途端、胸のつかえがストンと落ちた。そして、その時になって、やっと本書を本気で読んでみよう、という気持ちになったのである。

冒頭に本田美和子医師の「はじめに」があって、そこには、「人は、そこに一緒にいる誰かに『あなたは人間ですよ』と認められることによって、人として存在することができる」という文章が、地の文から浮き出るように太字で書かれている。こんな記述は、前二冊の著書では見られなかったこと、少なくともこれだけ目立つ形で、冒頭から宣言されてはいなかったことである。
もちろんその思想は、一冊目、二冊目においても、随所に読み取られる。しかし、第一冊目は、どのように「介護される人」を扱ったらよいか、ということを、もっぱら介護の職にある人たちに向かって説明しているものであり、第二冊目は、この技法が、介護の現場にあっては、如何に受け入れられることの難しいものであったか、ということを、もっぱら批判する立場で書かれたものであった。従って、読む人は、私自身がそうであったように、とにかく手っ取り早く技術を学び、その効果を実感したい、と言う思いばかりが先に立って、「介護される人」の立場を思いやる余裕など、まったくなかったと言える。
もちろん相手が人間であることは承知している、決してモノであるなどとは思っていない。でも現実には、「あなたは人間ですよ」というメッセージを、積極的に相手に送ることまでは思い付かなかった。それをしなければ、相手は自分が人間扱いされていると感じることは出来ないのだという現実を、はっきり意識し、認識するには至らなかったのである。

しかし、それこそが「ユマニチュード」という介護の技法の根底を支える思想であり、第一義的な重要性を持つものであることを、この「はじめに」という文章は、何よりも先に、明確に、力を込めて、宣言している。
それゆえ、第一冊目以来お馴染みの「四つの柱」「五つのステップ」という技術の細目の説明が始まるのは、やっと第四章に至ってからとなる。その前に、「介護される人」とはどういう存在であるか、を読者に理解してもらうために、多くのページが割かれている。

先ず第一章「ユマニチュードとは」において、「介護で大切な2つのこと」「優しさを伝える技術」として、この技法の基本的なコンセプトが説かれている。
その説明を私なりに要約してみるならば、それは「介護者がやりたいことをするのではなく、介護される人が必要なことをする」、そして「介護者は、介護されている人が自分をどう受け止めているかを常に振り返ってみなければならない」という二点に絞られる。これをさらに突き詰めて考えれば、それは、介護される人の「自己決定権の尊重」という一事に尽きることになろう。
「自己決定権」とは、フランス語で言えばautonomie, souveraineté というような語で表される(そもそも「ユマニチュード」という技法は、フランス語で考えられ、フランスで開発されたのであるから、ここにフランス語が登場するのは必然であることを理解して頂きたい)。これらの語を直訳するなら、それぞれ「自治権」「主権」となる。すなわち、それは「権利」であり、さらに言えば基本的人権なのである。
ところがこの「自己決定権」なる言葉は、日本語ではほとんど使われることがなく、使われるのはもっぱら「自己責任」という言葉である。それゆえ、とかく混同される、というか、すり替えられてしまう。しかしここで問題なのは、「自己責任」ではなく、「自己決定権」こそが問題であるということを、しっかり認識しておく必要がある。
多分大方の読者は、そんな面倒な語義の解釈などにはおかまいなく、書かれていることを、そうか、そうか、とすんなり受け止め、納得して、先へ読み進むことになろう。それでも構わないと思う。やがてこの章が、如何に大切な、基本的なことを述べているかが分かるときが来るのだから。

次に来る第二章「記憶の機能」は、決定的な重要性を持っている。ここは『ユマニチュード』(ブログ「『ユマニチュード』を読む」参照のこと)の第四章「人間たちについて、パラレルな世界」において、かなり専門的で詳細な記述が施されている部分である。
嘗てその本を翻訳を試みて、この記憶に関する記述に差し掛かったとき、私は、ここで使われているのは、心理学などの分野における専門用語であり、その分野では、それらの語それぞれに定着した訳語があるに違いないと思って、その方面の術語を調べてみることにした。
ところが、短期記憶に関するすべての用語、そして、長期記憶に関する四つの用語のうちの三つ目までは、適切と思われる訳語が至極簡単に見つかったのに対し、四つ目の「感情記憶」、フランス語でmémoire émotionnelle については、予想外に難航した。訳語どころか、そのフランス語にほぼ対応するように思われる日本語さえ、まったく見当たらないのだ。

考えあぐねた末、やっと『ユマニチュード』第四章は、もっぱら脳科学の知見に基づいて書かれていることに気付き、巻末の注に当たって見ると、果たしてDamasio Antonio R.,  L’Erreur de Descartes ; la raison des émotionsという、脳科学の分野における古典的な著作が載っていた。原著が英語で書かれているこの本には、幸いにして日本語訳があった(『デカルトの誤り 情動、理性、人間の脳』 アントニオ・R・ダマシオ著 田中三彦訳 ちくま学芸文庫 2014)ので、その訳本を頼りに、私は何とか自分で納得の出来る訳語に辿り着くことが出来たのだった。
ダマシオ(デマジオとも)によると、あらゆる「情動」は、脳内でさまざまな処理を施された後、最終的には「感情」という安定した形をとり、経験として保存されるという。また「情動」に由来しない「感情」(例えば「存在の感情」)というものもあって、「感情」は、「情動」よりも広い意味範囲を持つ語であることも分かった。そこで、私としては、最終的に mémoire émotionnelle(直訳すれば情動記憶)と言う語に、「感情記憶」という訳語を当てることに落ち着いたのである。

大分回り道をしてしまったが、ここで本題に戻ることにしよう。
第二章「記憶の機能」には、記憶が失われて行く順序が詳細に説明されている。そのおかげで介護者は、介護される人間における疾患ないし機能障害が、どのように進行して行くのか、その過程を具に辿り、見届けることが出来る。特に、認知・記憶障害のもっとも一般的なケースであると言われるアルツハイマー病は、その進行がきわめて緩慢で、しかも長期にわたるものであるために、その進行過程をじっくり観察し、観察結果を真摯に考察することによって、介護者は、介護を受ける人の状態を適確に把握し、それに対応した適切な介護をすることが十分可能となる、少なくとも可能になるはずなのである。

ここで何よりも大切なことは、記憶が次々に失われて行っても、「感情記憶」なるものは、最後まで、すなわち息絶えるその最後の瞬間まで、死に行く人の心の中に残されている、ということである。もはや言葉を発することが出来ず、外部の刺激に対してまったく反応しないように見える人においても、経験としての感情は残っている。それこそが、死に行く人の人格を、そしてその尊厳を、最後まで守り抜くものなのではないか、私にはそう思えた。何人かのベテランの介護士さんたちも、このような私の考えに賛同して下さった。少なくとも、人間の尊厳が、認知機能の低下によって失われたりするものでないことだけは、確実であると言ってよいのではなかろうか。

この第二章の記述があって初めて、読者は、第三章「認知症の人の特徴とその対応」に書かれていることを十分に理解し、納得することが出来る。
当たり前のことのようであるが、人は見ようと思わないものは見ないし、また見えない。問題意識がはっきりしていなければ、いくらたくさんの情報を与えられても、そこから有用な情報を引き出すことも出来なければ、活用することも出来ない。
ここに至って初めて、第一章で強調されていた「自己決定権の尊重」の意味が、はっきりと理解されることになろう。介護されている人の「自己決定権」を、介護する側の人間が侵していないかどうか、それは、予めそういう問題意識を持って相手に接している人間でなくては感知することが出来ない。善意だけで、すべてが理解出来、解決出来るものでは決してないのだ。この事実は、いくら強調しても強調しすぎることはないと思う。
でも私の知る限り、いわゆる「認知症」について書かれた、如何なる日本語の本にも、このような問題は取り上げられていなかった。また、同じ著者たちによる前記二冊の本のなかにも、十分明示的には書かれていなかったように思われる。

これだけの前置きがあって初めて、続く第四章、第五章に書かれていることが理解されることになる。要は、「大切な人に対して自分が無意識に行っている行動を、意識的に」行うことである。難しいことは何もないはずなのだ。そこに書いてあるのは、きわめて常識的、当たり前のことばかりなのだから。しかし同時に、それは、言うに易くして、実行は甚だ困難であるという現実を、正直に認めなければならないであろう。

本書がまさに「革命的」(『革命』参照)である理由は、「四つの柱」にしても「五つのステップ」にしても、それが、ただ「こうせよ」「ああせよ」というお題目の提示だけに終始するのではなく、与えられた指示を適切に行うためには、実際にどうしなければならないか、という、実践の場において起こり得るさまざまな問題点を具体的に示し、その解決法を懇切丁寧に説明している、ということにある。そこには、著者たちの四十年にわたる「経験」の厚み、深さが、余す所なく示されている。

一つの例として、「ユマニチュード」の技術1、「見る」について、どう書かれているか。
先ず始めに「正面から、近く、水平に、長い時間見る」ことが必要、と赤い文字で目立つように書かれている。これだけのことなら、マニュアルでもコンピューターの画面でも十分間に合う。でもそれが実際に適切に行なわれ、所期の目的を達することが出来るかどうかは別問題である。期待通りに事が運ばない場合、いらだった介護者が、相手を虐待することだって十分に起こり得ることなのだ。そして実際に起きている。

少し先を読んで行くと、「ここで大切なのは、適切な距離は『ケアを受ける人が決める』ということです。相手が後ずさったり、のけぞったりすれば、それは近づきすぎです。適切な距離は、同じ人であっても状況によって変わってきます。コミュニケーションの第一歩として、見るための適切な距離を常に測りながら近づいてみてください。」と書いてある。周りに如何に沢山の情報が溢れていても、コンピューターは、そこからこのような結論を引き出すことは出来ないだろう。これは、長年にわたって現場を体験した人でなければ言い得ないことなのだ。そして、経験として記述されているからこそ、読者の心に直に訴えかけ、働きかけ、読者の意識のなかに然るべき位置を占めることが出来るのだと思う。

単なるお題目の羅列ではなく、数値や図式の提示でもなく、さまざまな試行錯誤 ――その語の本来の意味におけるエッセー ——の繰り返し、積み重ねの記録として語られる「経験」の厚みこそが、本書と前二冊とを隔てる決定的な違いであると私は思う。
前二冊ですでに、「ユマニチュード」という介護の「技法」については、十分な説明がなされていた。読んでいて、なるほど、なるほど、その通りだ、と十分に納得出来る。でもそれは、「知識」「情報」の域にとどまっていて、読者に、自らその方法を実施しようという気持ちを起こさせるほどのインパクトは持っていなかった。

でも、三冊目にあたる本書は違う。これを読むと、これなら自分にも出来るのではないか、取り敢えず出来ることはやって見よう、という気持ちになり、実行への意欲を掻き立てられるのだ。何故そういうことになるのか。少し乱暴な言い方かも知れないが、それは著者たちが、如何にして相手とのコミュニケーションをとるかということを、介護の現場において真摯に追求した結果、著者と読者の間のコミュニケーションを取る術をも、同時に学んでしまったから、と言えるのではなかろうか。コミュニケーションの基本は、言語的、非言語的を問わず、話し手が、相手に対して徹底的に正直である、ということにあるのだから。

もう一つ別の例を挙げよう。「ユマニチュード」の技術2、「話す」について
「人はイライラするとだんだん声が高く、大きくなっていきます。『あなたのことを大切に思っています』というメッセージを伝えるには、低めの声で、穏やかに優しく、ときには歌うような抑揚をつけて話します」とある。
ここで一番大切なのは「低めの声」ということだと思う。「穏やかに優しく」話しなさい、と言われても、読んだ人は、現実に、介護の場で、どういうふうに話しかけたらよいのか分からない。相手が聞こえないだろうと思って声を張り上げたり、緊張して、やたらと高い声、ヘンに表情をつけた不自然な作り声で話しかけてしまうのは、よくあることだ。でも、それでは相手に気持ちが伝わらない。「声の色」というものは、「目の色」と同様、或いはそれ以上に、話す人間の心のうちを曝け出してしまうものであるから。
「低めの声」というのは、必ずしも周波数の少ない「低音」ということではなく、人間と人間とが一対一で向かい合った時の、ごく自然な話し声の高さということではないだろうか。そうして、ゆっくりと、母音を十分に響かせながら話せば、抑揚は自然について来る。話の内容などは二の次でよい。
ここまで書いて来て、ふと思い付く。これって、子守唄を歌うときと、まったく同じではないのか。まだ、言葉の話せない赤ちゃんに、母親はこんな風に話しかけるのではないのか。そこには作為もなければ努力もない。

本書第一章最後の、見開きになった二ページには、赤ん坊と老人とを対比したイラストが示されている。この二つのイラストは、そこに付けられたキャプション以上のことを物語っているように私には思われた。
子供も老人も、誰かに助けてもらわなければ、生きて行けない弱い存在である。
だから親は子供の世話をし、面倒をみる。つまり、子供が成長し、やがて一人立ちして、社会の一員として生きて行けるように、懸命に働きかける。これは教育である。
一方、一人立ちした子供は、もはや自立した生活の出来なくなるまでに老い衰えた親の世話をし、面倒をみる。つまり、老親が社会から身を退き、一人の人間としての生を全うしてから、あの世へと旅立つのを看取る。これが介護というものではないか。

よく「育児」とは育「自」であると言われるが、同様に、老親を介護するとは、自分自身を教育することではないのか。つまり、親の生き方、死に方を間近に見ながら生きることによって、自身のうちに、人生観、死生観を形成し、充実させて行くことになるのではないか。
これは全く自然なサイクルであろう。「介護」の原点はここにあるのだと私は思う。

もちろん、現代の高度に発展した文明社会において、教育も介護も、親と子の間の閉じられた関係のなかでのみ行われ得るものではない。社会の中に生きる人間において、すべての行為は社会化されざるを得ない。それは必然であり、必要でもある。

「ユマニチュード」という介護の技法は、ただ「認知症の高齢者」のみを対象としたものではなく、我々の日常生活のさまざまな場面で適用可能な、きわめて有用な技術であることは間違いない。また「技法」としても、今後ますます完成されて行くものであろう。
しかし、教育も介護も、その原点が自然のなかにあることを忘れてはならないと思う。
人間もまた、あらゆる生き物と同様、自然の一部であるからには、どんなに技術が進歩しても、どんなに社会の文明化が進んでも、生老病死は人生の必然であり、自然の摂理である。これに抗うことは虚しい。この真実を率直に認めなければならないであろう。

本書を読み終えて私が感じたのは、以上のようなことであった。
一見、初歩的な入門書、簡便な解説書のように見える本書は、その実、きわめて奥深い内容を持っており、現代日本の直面しているいわゆる「老人問題」を超えて、「人間とは何か」「人間は如何に生きるべきか」に関して、我々に深く考えさせるものを持っていると思う。



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